『大和物語』 本文・現代語訳

歌物語。作者・成立年などは不明です。「男」の一代記風に構成され、主に『古今集』の和歌を素材とする『伊勢物語』とは対照的に、『後撰集』の時代に活躍した多数の歌人が実名で登場している点が特徴的です。

※本文は「天福本」の影印から翻刻し、適宜、漢字表記に改めています。

第5段 亡き皇太子を悼む

 前坊の君、亡せ給ひにければ、大輔かぎりなくかなしくのみおぼゆるに、后の宮、后に立ち給ふ日になりにければ、ゆゆしとてかくしけり。さりければ詠みていだしける、

 

  わびぬれば今はとものを思へども心に似ぬは涙なりけり

 

前皇太子がお亡くなりになってしまったので、大輔が際限なく悲しく打ち沈んでばかりいたところ、后の宮が、中宮におなりになる日になったので、不吉であるということで、大輔を人前から隠した。それで、大輔が詠んで差し出した歌、

 

(おめでたい日に故人を想って泣くのは)困ってしまうことなので、「今は(悲しまないでおこう)」と思うのだけれど、自分の意思に沿わないのは、涙なのであったなぁ。


前坊の君は、醍醐天皇の子どもで、皇太子であった保明親王のこと。彼は、帝位が譲られる前、二十一歳の若さで亡くなってしまいました。
 
大輔は保明親王の乳母子でしたが、『醍醐天皇御集』に「みこありける人」との表記があり、保明親王の子どもを産んでもいるようです。彼女が、悲しみに暮れることも無理はありません。
 
后の宮は、この保明親王の母でもある穏子です。彼女が、女御から中宮に上がる立后の日は、親王が亡くなってから、一ヶ月と六日しか経っていない日のことでした。親王が亡き後、政治的優位が揺らぐことを恐れた藤原氏が強引に事を推し進めたものと推察されます。
 
今回の大輔の行動は、そうした政治的事情のもと、前坊の君の死を悼むことがおろそかにされていることに抵抗したようにも見受けられます。
 
そうした読み方をはっきりと出しているのが、この記事と同様の出来事を記した『大鏡』の村上天皇の項です。
 
「后に立ちたまふ日は、先坊の御事を宮の内にゆゆしがりて申しいづる人もなかりけるに、かの御乳母子に大輔の君といひける女房の、かくよみていだしける」と書いています。
 
なお、この歌は、『新勅撰集』の恋四に凡河内躬恒の歌として出ており(第四句は「心しらぬは」である)、大輔の歌としての和歌集入集はありません。

第6段 人妻との恋の終わり

朝忠の中将、人の妻にてありける人にしのびて逢ひわたりけるを、女も思ひかはしてすみける程に、かの男、人の国の守になりて下りければ、これもかれもいとあはれと思ひけり。さて詠みてやりける、

 

  たぐへやる 我がたましひを いかにして はかなき空に もてはなるらむ

 

となむ、下りける日いひやりける。

 

朝忠の中将が、人妻であった人に隠れてずっと逢っていたのを、女も気持ちを交わし、中将が通い続けていたときに、女の夫が地方の国司になって、女ともども京都を離れることになったので、中将も女も大変しみじみ悲しく思った。それで詠んで女に送った歌、

 

私の魂はあなたのもとに寄り添わせたというのに。あなたはどうして頼りない旅寝の空に離れておいでなのだろうか。

 

と女が地方へ下った日に言ってやったのである。

 

この和歌は『朝忠集』に載っていますが、勅撰和歌集『千載集』離別の巻では、藤原伊伊の歌として伝えられています。伊伊の家集『一条摂政御集』には採録されていないので、朝忠の歌が、千載集編纂の際に誤認されたものと見て良さそうです。